朝6時半のコスメポーチが、私を誰かにしてくれる

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高校二年の秋から、私は30分早く起きるようになった。

別に朝活とか意識高い系の話じゃなくて、ただメイクする時間が欲しかっただけ。それまでは日焼け止めとリップクリームだけで家を出ていたんだけど、ある日電車の窓に映った自分の顔があまりにも「存在感がない」って感じがして、なんか悔しくなったんだよね。誰に対して悔しいのかもわからないまま、その足でドラッグストアに寄った。

初めて買ったのはキャンメイクのマシュマロフィニッシュパウダーとブラウンのアイブロウペンシル、それからオレンジ系のチーク。全部で2000円ちょっと。レジのお姉さんが「学生さん?」って聞いてきて、なんだか恥ずかしくなって小さく頷いただけだったけど、袋を受け取る手が妙に熱かったのを覚えてる。家に帰ってすぐ洗面所で試したら、眉毛の描き方がわからなすぎて左右で太さが全然違う仕上がりになって、母に爆笑された。「宇宙人みたい」って。ひどくない?

それから毎朝、学校に行く前の洗面所が私の秘密基地になった。最初は本当に下手で、ファンデーションの色も合ってなくて首と顔の境目がくっきり分かれてたし、チークも入れすぎておてもやん状態。クラスの男子に「風邪?」って心配されたときは本気で穴があったら入りたかった。

でもね、不思議なことに気づいたんだよ。メイクをした日としない日で、自分の声のトーンが違う。鏡を見たときの目線の高さが違う。廊下を歩くときの歩幅まで変わってる気がする。別に派手にしてるわけじゃない。眉を整えて、肌の色ムラを消して、ほんの少し血色を足すだけ。それだけなのに、なんていうか、「ちゃんとした人」になれる感覚がある。

友達のユイは「メイクなんて面倒くさい」ってタイプで、いつもすっぴんで学校来てるんだけど、彼女は元々目がぱっちりしてて肌も綺麗だから羨ましいなって思う。私みたいに地味な顔立ちだと、何もしないと本当に風景に溶け込んじゃうんだよね。存在してるのかしてないのかわからない、みたいな。

そういえば去年の夏、家族で海に行ったとき、母が「メイク落ちちゃうから今日はしなくていいんじゃない?」って言ってきたことがあった。でも私、日焼け止めの上から軽くパウダーだけは叩いていった。水着になるのは恥ずかしかったけど、すっぴんで一日過ごすほうがもっと恥ずかしかったから。変なの、我ながら。

ナチュラルメイクって言葉、最初は意味がよくわからなかった。自然に見えるメイク? それってメイクしてないのと同じじゃん、みたいな。でも違うんだよね。「何もしてません」って顔に見えるように計算して作り込むのがナチュラルメイクで、それって実はすごく技術がいる。アイシャドウはベージュとブラウンの中間みたいな色を薄く薄く重ねて、マスカラは根元だけ。リップはティントを指でぽんぽん叩いて馴染ませる。

朝の洗面所、冬場は窓ガラスが結露してて曇ってるから、手で拭いてから鏡を見る。冷たい空気の中で頬にチークをのせると、ふわっと桃みたいな匂いがする。あれ、なんの香料なんだろう。人工的な甘さなんだけど嫌いじゃない。ブラシを洗うのは週に一回、日曜の夜って決めてる。ちゃんとケアしないとすぐ雑菌が繁殖するらしい。

クラスの委員会で前に立って発表するとき、メイクしてる日は原稿を見なくても話せる。視線が怖くない。これって完全に気のせいなんだろうけど、気のせいでも効果があるならそれでいいと思ってる。プラセボ効果ってやつ? 心理学の授業で習った気がする。

コスメカウンターって、まだ一度も行ったことがない。デパートの一階、あのキラキラした空間。BAさんって呼ばれる美しいお姉さんたちが立ってて、私みたいな高校生が入っていいのかわからなくて、いつも遠くから眺めるだけ。いつか、バイト代貯めて、ちゃんとしたブランドのファンデーション買いに行きたい。ディオールとか、シャネルとか。名前を言うだけでドキドキする。

メイクは鎧じゃなくて、たぶん翼に近い。守るんじゃなくて、飛ばしてくれる。朝、ポーチのファスナーを開ける音がする。今日も私は誰かになれる。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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