夏の夜が、少しずつ動き出す気配がある。窓の外からは、遠くの街の喧騒が風に乗って漂ってきて、どこかで誰かが笑っている声が聞こえた気がした。今夜はパーティーだ。
鏡の前に座ったのは、午後六時を少し過ぎた頃。西日がカーテンの隙間から斜めに差し込んで、ドレッサーの上のコスメポーチをやわらかく照らしていた。ポーチのジッパーを開けると、ほんのりとローズとバニラが混ざったような香りがふわりと広がる。好きな香りだ。子どもの頃、母の化粧台の引き出しをこっそり開けた時に感じたあの匂いに、どこか似ている。あの頃は口紅のキャップをこっそり開けて、指先につけてみて、すぐに慌てて拭いたものだった。
ファンデーションのブラシを手に取りながら、今夜の会場のことを思う。友人が予約してくれたのは、代官山の裏通りにある「ヴェール・ルミエール」というレストランバー。名前だけ聞くと少し気取った感じがするけれど、実際はカウンターに蜜蝋キャンドルが並んでいるだけのこじんまりとした空間で、壁はむき出しのコンクリートだと聞いた。そのギャップが、なんとも好きだと思う。
2026年は、少人数で完結する楽しみ方、閉じた空間での安心感が、いろいろなジャンルに広がっている。
今夜のパーティーもそう——招かれたのはたった八人。だからこそ、どんな出会いがあるのかという期待が、ふつふつと胸の奥から湧いてくる。
チークを乗せながら、鏡の中の自分と目が合う。頬にほんのりと熱が宿って、血色がよくなった気がした。こういう瞬間が、好きだ。メイクをするという行為は、誰かのためでもあるけれど、まず自分のためにある。ブラシの毛先が頬骨を滑る感触、パウダーが肌に馴染む音にならない音、そういう細かいものが積み重なって、「今夜の自分」がゆっくりと形になっていく。
アイシャドウのパレットを開く。今夜選んだのは、テラコッタとゴールドを混ぜたような色。
2026年春夏のトレンドは、シアー素材やレースがもたらす柔らかさと、構築された強さを編集したコレクション。
メイクもそれと同じで、今年は「強さの中に透け感」が気分だと感じている。重ねすぎず、でも存在感を消さない。その塩梅を、ブラシ一本で探っていく。
リップを塗ろうとして、ふと手が止まった。ケースのフタを開けたら、中身がほとんどなくなっていた。あんなに大事に使っていたのに——というか、そもそも補充しておくつもりだったのに、すっかり忘れていた。仕方なく、引き出しの奥にしまっておいた少し古いボルドーを取り出す。「これはこれで、今夜の気分に合うかもしれない」と自分に言い聞かせながら塗ったけれど、鏡の中の自分はどこか少し得意げな顔をしていた。まあ、いい。
「目立つための流行」ではなく、自分の好きや心地よさを、誰に・どう共有するかを大切にする価値観。
それがいまの時代の空気だとすれば、このボルドーのリップも、自分が心地よいと感じるなら正解だ。
仕上げに、香水を一吹き。首筋に、ほんのりと。
立ち上がって全身を確認する。窓の外はもう夕暮れの最後の色が残るだけで、空が紺色に変わりはじめていた。この時間帯の光が、いちばん好きだ。昼でも夜でもない、どちらにもなれる時間。今夜の自分も、そんな感じでいたい——決まりすぎず、でも揺らがない。
パーティーには、期待がある。誰かと話して、笑って、思いがけない出会いがあるかもしれない。名前も知らない誰かと、気がつけば深い話をしているような夜になるかもしれない。それはわからない。でも、この鏡の前の時間が、その夜への助走になっている。
コスメポーチをバッグに滑り込ませて、ドアを開けた。夏の夜の空気が、頬に触れた。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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