目覚ましが鳴る前に、すでに目が覚めていた。九月の早朝、窓の外はまだ薄青く、空気だけが秋の気配をひっそりと運んでいた。カーテンの隙間からわずかに差し込む光が、洗面台の鏡をぼんやりと照らしている。今日は、四半期に一度の重要なプレゼン会議だ。
いつもより三十分早く起きて、丁寧にスキンケアを済ませる。洗顔後の肌に化粧水をなじませるとき、ひんやりとしたテクスチャーが指先から広がって、少しだけ気持ちが落ち着く。この感覚が好きだ。朝のこの数分間は、仕事モードへと切り替えるための、ささやかな儀式のようなものかもしれない。
コスメポーチを開ける。今年の春に買い替えた、架空のコスメブランド「ルミエール・ドゥ」のリップが真っ先に目に入った。深みのあるローズブラウンで、つけた瞬間に唇がきゅっと引き締まる色だ。
2026年のオフィスメイクは、品のよさと抜け感のバランスが大切で、旬な色を使った「濃淡仕上げ」が主流になっている。
だから今日は、目元をあえてミュートに抑えて、リップだけで顔に重心を持たせることにした。
ベースを薄く整え、眉を描く。眉は、その日の自分の顔の「芯」になる部分だと思っている。強すぎず、弱すぎず。会議室で向かい合う相手に、圧をかけるのではなく、信頼を届けたい。そういう気持ちが、自然と筆の角度に出る。
オフィスワーク中心の場合、素肌感ベースにアクセントメイクを組み合わせると、TPOに合わせやすい仕上がりになる。
今日の私の答えは、まさにそれだった。
チークをブラシに取ったとき、うっかり量が多すぎて、鼻の頭まで薄っすらピンクになってしまった。鏡の中の自分と、一瞬だけ目が合う。……やり直し。こういうことが、緊張している朝に限って起きるのはなぜだろう。
仕上げにセットスプレーをひと吹きして、ようやく完成。鏡を正面から見つめると、そこにいるのは、ちゃんと「仕事をしに行く人間」の顔だった。凛とする、という言葉が頭に浮かぶ。華やかさとは少し違う。背筋が伸びるような、静かな強さ。コスメが運んでくれる、そういう感覚がある。
駅まで歩く道、空気はまだ柔らかく湿っていて、金木犀にはまだ早いのに、どこかから甘い匂いがした。気のせいかもしれないし、近所の誰かが使っている柔軟剤かもしれない。それでも、その香りのおかげで少し肩の力が抜けた。
オフィスに着くと、同僚の田中さんがすでにデスクで資料を確認していた。「今日、なんか雰囲気違うね」と、コーヒーカップを渡しながらさらりと言った。褒め言葉なのか、単なる観察なのか判断がつかないまま、「ありがとう」と返す。でも、悪い気はしなかった。
2026年上半期のトレンドとして、「凛と爽やかなコンサバメイク」が注目を集めている。
それは単に見た目の話ではなく、働く場で自分をどう表現するか、という問いへの一つの答えだと思う。メイクは鎧ではない。でも、確かに何かを整えてくれる。今日の会議に向かう私の気持ちを、少しだけ前へ押し出してくれる力が、あの小さなコスメポーチの中に詰まっている。
会議室のドアを開ける直前、もう一度だけ深呼吸をした。九月の朝に施した、今日だけの一枚の顔を持って、私は仕事の場へと踏み込んでいった。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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