目が覚めたとき、カーテンの隙間から差し込む五月の朝の光が、白い天井に細長く伸びていた。まだ七時にもなっていない。それでも体はもう、今日が「ただの一日ではない」と知っていた。重要な会議がある。それも、半年越しに準備してきた、あの案件の最終プレゼンだ。
洗面台の前に立ち、鏡と向き合う。素顔の自分を三秒ほど見つめてから、ゆっくりと化粧を始める。このときの静けさが、私はひそかに好きだ。オフィスの喧騒も、会議室の緊張も、まだどこにも存在していない。あるのは、洗面所に漂うほのかなシトラスの香りと、ブラシが頬をなでる、やわらかな感触だけ。
ベースを丁寧に伸ばしながら、ふと思い出すのは子どもの頃のことだ。母の化粧台を無断で開け、真珠色のアイシャドウを両目に塗りたくって、「仕事に行く」と言い張った朝がある。母は笑いをこらえながら、「それは夜のコスメよ」と優しく言った。あのとき私は、コスメには「時と場」があることを、なんとなく学んだ気がする。
仕事の場に向かうとき、化粧は単なる習慣ではない。それは、自分を整えるための儀式に近い。凛とする、という感覚。背筋がすっと伸びるような、あの感覚を引き出してくれるのが、今の私にとってのコスメの役割だ。
今日選んだのは、ニュアンスのあるベージュブラウンのリップと、光を含んだアイシャドウ。ブランドは「LUMIÈRE CALME(リュミエール・カルム)」という、フランス系のスキンケア発のコスメライン。主張しすぎず、でも確かに「そこにいる」と感じさせる色づきが、オフィスのシーンにちょうど合う。
アイラインを引くとき、手がほんの少しだけ震えた。緊張、というより昂りに近いもの。プレゼン資料は昨夜も見直した。データも、言葉も、流れも、整っている。あとは自分自身を整えるだけだ。コンシーラーで目元の青みを隠し、チークをふんわりと乗せる。鏡の中の顔が、少しずつ「今日の私」になっていく。
仕上げにマスカラを二度重ねたとき、ふいに隣の部屋でコーヒーメーカーが動き出す音がした。ぽこぽこと、のんびりした音。それだけで、少し肩の力が抜けた。香りが漂ってきたのはその数秒後。深煎りの、少し苦い匂い。今朝は時間がないのに、なぜかその一杯を待ちたくなった。
オフィスに向かう前のこの時間は、誰にも渡したくない。鏡の前で自分と向き合い、今日の顔をつくる。それは、仕事へのスイッチを入れる行為でもある。メイクが整うにつれて、思考もクリアになっていく気がする。これは気のせいではないと思っている。
凛とする、というのは、強がることではない。自分の中にある静けさを、外側に映し出すこと。そのためのコスメを選ぶこと。今日の会議に向かう私にとって、それがいちばん大切な準備だった。リップを一度だけ確認して、バッグを手に取る。五月の朝の光は、もう窓いっぱいに広がっていた。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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