夜が近づいてくると、空気が少しだけ変わる気がする。昼間の蒸した熱が路面に残ったまま、窓の外はオレンジとグレーが溶け合う時間帯になっていた。8月の終わり、夕暮れが早くなってきたことに気づいたのはついこの間のことだ。
今夜は、パーティーがある。
友人のMaiから誘われたのは三週間前のことで、「ドレスコードはなし、でもちょっとだけ特別な感じで来てね」というメッセージだけが届いた。”ちょっとだけ特別”——この言葉が、ずっと頭の片隅に引っかかっていた。どんな服を着るかより、どんなメイクをするかで、その夜の自分が決まる気がして。
鏡の前に座ると、いつもとは違う緊張感がある。コスメポーチを開けると、先月買ったばかりのリキッドハイライターが転がり出てきた。フランス発のニッチコスメブランド「ルミエール・ドゥ・セーヌ」の限定色で、偏光パールが入った濡れたようなツヤが出る一品だ。パッケージを見るたびに、なんとなく背筋が伸びる。
今年の夏のトレンドは「濡れつや質感」
だと、好きなビューティーメディアで読んだ。たしかに、肌がまるで水を含んでいるみたいに見えるあの質感は、パーティーの照明の下でいちばん映える。ベースを薄く整えて、頬骨の高いところにだけそっとハイライターをのせる。指先でなじませると、じんわりとした温かさが伝わってきた。
リップはどうしようかと少し迷った。
今年の夏は「ネオンリップ」がトレンド
だと知っていたけれど、正直なところ、自分の顔に似合うかどうか自信がなかった。試しにポーチの中から鮮やかなコーラルピンクを取り出して、唇にのせてみる。——思ったより、悪くない。鏡の中の自分が、少しだけ見知らぬ誰かに見えた。その感覚が、嬉しいような、こそばゆいような。
子どものころ、母の化粧台を勝手に開けて口紅を塗ったことがある。真っ赤な色が顔の真ん中で浮いてしまって、慌てて拭き取ったのに全然落ちなくて、夕飯の席でずっとうつむいていた。あのときの赤面が、今でもふとよみがえる。あれからずいぶん経ったのに、リップひとつでこんなにドキドキするのだから、人間というのは案外変わらないものだ。
香水を手首にひと吹きする。今夜選んだのは、少しスパイシーなムスクの香り。白い煙のようにふわりと広がって、すぐに肌になじんでいった。この香りを纏うと、自分が少し大人になった気がする——というのは大げさかもしれないが、それでもそう感じてしまうのだから仕方がない。
パーティーには、出会いがあるかもしれない。
新しい人と話すことへの期待と、少しの緊張。今夜どんな会話が生まれるかは、まだ誰にもわからない。でも、鏡の前でこうして時間をかけて自分を整えるとき、その期待はじわじわと育っていく。メイクというのは、自分のためでもあり、誰かに会うための準備でもある。どちらが本当かなんて、決めなくていいと思っている。
アイシャドウのブラシを持ち上げようとしたとき、勢いよく肘でリップライナーを床に落としてしまった。カランと乾いた音が部屋に響いて、一瞬シンとなる。——まあ、こういうこともある。拾い上げて、また鏡に向き直す。
夜の空気が窓から入ってきた。少しだけ涼しくなっていた。
今夜のパーティーが、どんな夜になるのか。期待しながら、もう少しだけ、鏡の前に座っていようと思う。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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