目が覚めたのは、まだ空が白みかけたばかりの六月の朝だった。カーテンの隙間から差し込む光は、まだ柔らかく、どこか遠慮がちで。今日は、重要な会議がある。
頭の中では、すでに議題が走り始めていた。資料の順番、想定される質問、先方の担当者の名前。でも、まずはコーヒーを淹れることにした。豆はいつも「ヴェルダ・ブレンド」という、近所の小さな焙煎所のもの。挽きたての香りが台所に広がると、少しだけ呼吸が深くなる気がする。それだけで、今日という日が始まる感じがした。
仕事に向かう朝の支度の中で、私がいちばん時間をかけるのが、メイクだ。単なる「身だしなみ」ではなく、もっと個人的な何かだと思っている。鏡の前に座って、コスメを並べていく時間は、自分の内側と静かに向き合う時間でもある。
今日のベースは、薄付きで肌の質感を活かせるものを選んだ。指先でなじませると、ひんやりとした感触がある。オフィスの蛍光灯の下でも浮かない色味を選ぶのは、経験から学んだことだ。以前、大事なプレゼンの日に「舞台メイク」に近い仕上がりにしてしまって、会議室に入った瞬間に上司に「今日、お芝居でもあるの?」と言われたことがある。笑えない話だけれど、今となっては笑える。あの日から、オフィスコスメは「引き算」で考えるようにした。
アイシャドウは、くすんだテラコッタ系のワントーン。目元に少し奥行きをつけるだけで、表情がしゃんとする。「凛とする」という感覚は、こういう細かい積み重ねの中にある、と私は思っている。誰かに見せるためではなく、自分自身が「今日の私はここにいる」と感じるための、小さな宣言のようなもの。
リップは迷った末に、深みのあるローズベージュにした。口を開いて話すとき、その色が場の空気をほんの少し引き締めてくれる気がする。根拠はないけれど、気持ちの問題は、仕事においてばかにできない。
小学生のころ、母が出かける前に鏡の前でさっと口紅を引く姿を見ていた。それが「仕事に行く人」の仕草として、ずっと記憶の中にある。特別なことでも何でもない、ほんの十秒の動作。でも、その十秒に何かが宿っていた。今、自分がそれと同じことをしていると気づくのは、いつも支度の終わりかけのころだ。
メイクを終えて、鏡の中の自分を確認する。派手ではない。でも、ぼんやりともしていない。オフィスに向かう自分として、ちょうどいい。
バッグを持って玄関を出ると、六月の朝の空気が頬に触れた。湿気を含んで、少しだけ重い。梅雨の手前の、この時期特有のにおいがある。アスファルトと草と、どこかの家の朝ごはんの香りが混ざったような。
電車に乗り込むと、向かいに座った女性が、小さなコンパクトミラーを開いてチェックをしていた。ほんの数秒、それだけ。でも、その仕草に、なんとなく親近感を覚えた。彼女もきっと、今日、何か大事なことがあるのかもしれない。
仕事の場に向かう朝の、コスメを纏う時間。それは単なる準備ではなく、自分を整える儀式だ。オフィスという場所で凛とした存在でいるために、今日も私は鏡の前に立つ。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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