朝の7時15分。カーテンの隙間から差し込む七月の光が、洗面台の鏡をうっすら白く染めていた。外はもう蝉が鳴きはじめていて、その音が窓ガラス越しにくぐもって聞こえてくる。夏の始まりの、あの独特の空気。少し湿っていて、どこか甘い匂いがする朝。
彼女は小さなポーチを開いた。
中から取り出したのは、「ルミエルヌ」というブランドのクッションファンデ。架空のブランドだけれど、彼女の中では本物以上にリアルな存在だ。蓋を開けると、ほんのりとローズの香りが広がる。パフに含ませて、頬の中心からやさしく広げていく。厚塗りにならないよう、ぽんぽんと叩くように。
ファンデーションを最小限に抑えて素肌の質感を活かす薄づき仕上げ
、それが今の彼女のやり方だった。
女子高生がメイクをはじめるとき、それはたいてい「誰かに見せるため」じゃない。鏡の中の自分と、静かに向き合うための時間だ。少なくとも彼女にとってはそうだった。
チークは淡いコーラルピンク。
一見チークをつけていないかのような、自然な血色感が理想的
だと、どこかで読んだ言葉が頭に残っていた。大きめのブラシでふんわりとのせると、頬がほんのり温かみを帯びる。鏡の中の自分が、少しだけ違って見えた。
実は彼女、今日は少し緊張している。放課後に友人たちと原宿を歩く約束があった。
JKトレンドを追うメディアが特集するような
、あの街の空気感に飲み込まれないように、でも自分らしくいられるように。そのバランスが、まだうまく掴めていない。
アイシャドウを開く。ピンク系のパレットで、
目元はナチュラルさを意識しながら、骨格を活かした立体感づくりがポイント
だと意識しながら、薬指の腹でやさしくアイホールに広げていく。ここで少し失敗した。右目と左目で微妙に濃さが違う。綿棒でぼかそうとしたら、今度はやりすぎた。結果、「まあいっか」と心の中でつぶやいて終わりにした。完璧じゃなくていい、と最近は思えるようになってきた。
眉を整えながら、ふと子どもの頃のことを思い出した。母親の化粧台の前に座って、口紅を唇に塗りたくって、鏡に向かって大きく笑ってみせた、あの夕方のこと。母に見つかって叱られたのに、なぜかあの瞬間の自分の顔が、今でもはっきり記憶に残っている。明るい表情をしていた。力みのない、純粋な笑顔だった。
「ピンク系など、春っぽいカラーをまとうことで自分の心も明るく前向きになる」
と言ったメイクアップアーティストの言葉を、彼女はどこかで読んでいた。それがメイクの持つ力だ、と。その言葉が、今朝の鏡の前でじんわりと実感に変わる。
リップを取り出す。ぷるんとした艶のあるローズベージュ。唇の中央から丁寧に広げると、顔全体がまとまる感じがした。
主張しすぎない色味でも、みずみずしさを加えることで、今っぽい存在感のある口元が完成する
。なるほど、とひとり納得する。
ナチュラルメイクというのは、「何もしていないように見せる技術」ではないと、彼女は最近気づいた。自分の顔の輪郭を知って、どこを活かしてどこを補うかを選ぶこと。それは、自分を理解するということと、ほとんど同じことだと思う。
加工や演出よりも”ありのまま”をコンテンツ化する流れが加速している
中で、女子高生たちのメイクも変わってきた。盛ることより、整えること。派手さより、清潔感。そして何より、自分の顔を好きになるための道具として、コスメを使うようになってきた。
ポーチをしまいながら、彼女は最後にもう一度鏡を見た。
完璧ではない。でも、今日の自分の顔が、昨日よりすこしだけ好きだった。窓の外では蝉の声が続いていて、七月の光が洗面台の白いタイルに反射してきらきらしていた。玄関のドアを開けると、夏の空気がどっと押し寄せてくる。熱くて、少しだけ甘くて、どこへでも行けそうな気がする朝だった。
メイクは力だ。誰かに向けた力じゃなくて、自分自身の内側へ向けた、静かで確かな力。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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