窓の外が白く滲むような、七月の午後だった。エアコンの効いた部屋の中だというのに、光だけは夏のもので、カーテン越しに差し込んでくる西日がフローリングの上に細長い四角形を描いていた。そのまぶしさを横目に、私はテーブルの上にネイルポリッシュを並べ始めた。
今年の夏、ずっと気になっていたカラーがある。
透明や薄いベージュをベースに、爪の先端を極細のラインで仕上げるマイクロフレンチ
。それに、少しだけ背伸びして選んだのが「ソフトフォーカスイエロー」と呼ばれる淡い黄色だ。ネイル専門の小さなセレクトショップ「ヴェルニ・ルーン」で見つけた、瓶の中に朝霧を閉じ込めたような色。買うとき少し迷って、でも結局レジに持っていった。あの瞬間の、小さな勇気みたいなものが今日ここにある。
ポリッシュの蓋を開けると、ほんのりとした溶剤の香りが鼻先をかすめる。嫌いじゃない。むしろ、この匂いを嗅ぐたびに何かが始まる気がして、少しだけ背筋が伸びる。刷毛を瓶の縁でそっと整えながら、利き手じゃないほうの指から塗り始める。これが毎回うまくいかない。今日も親指の端が少しはみ出た。まあいい、と思いながら修正液を取り出す——そういえば修正液、どこに置いたっけ、と三十秒ほど部屋をキョロキョロ見回したのは、ここだけの話にしておきたい。
今年の春夏トレンドとして、水光マグネットやフラッシュネイル、そして粘土ジェルを使った立体的なフラワーアート
も話題だと知っていた。でも今日の私には、もっとシンプルなものが似合う気がした。静かな心で、ただ自分の指先だけを見つめていたかった。
「静かな心」という言葉を最初に意識したのは、子どもの頃のことだ。母がテーブルに座って爪を塗っているとき、私はその隣でじっと手元を眺めていた。動かないでいられる時間が、あの頃の母にはあった。今の私にも、たまにそういう時間が必要だと思う。スマホも、通知も、誰かの声も、全部少しだけ遠ざけて。刷毛の先が爪の上をすべる感触だけに集中する、あの数分間。
夏らしいシェルネイルやクリアネイル、抜け感のあるニュアンスネイル
も素敵だけれど、今日選んだのは結局、そのソフトフォーカスイエローの一色塗りだった。乾いていくにつれて色が落ち着いて、肌に溶け込むような、でも確かにそこにある黄色になった。窓から差し込む光に手をかざすと、爪が淡く光る。きれいだ、と思った。誰かに見せたいわけでもなく、ただ自分がそう感じた。
ネイルを塗るという行為は、出会いに似ていると思う。色との出会い、質感との出会い、そして今日の自分自身との出会い。毎回同じ色を選んでいても、その日の気分や光の加減で、仕上がりはちょっとずつ違う。それが面白い。
最後の仕上げにトップコートを重ねると、表面がつるりとして、まるでガラスの薄い膜が張ったようになる。乾くまでの間、両手をそっと膝の上に置いて、何もしない時間をつくる。スマホを触りたい衝動をぐっとこらえながら(これが一番難しい)、ただ指先を見ていた。
夏の午後、西日がフローリングの四角形を少しずつ動かしていく。エアコンの低い音と、遠くから聞こえる蝉の声と、乾いていくネイルのこと。それだけで、今日はじゅうぶんだった。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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