目が覚めたとき、カーテンの隙間から差し込む光が、いつもと少しちがった。
平日の朝はスマートフォンのアラームとともに始まるけれど、今日は違う。今日は休日だ。8月の朝特有の、すでに空気が白く熱を帯びた感じ。窓を少し開けると、どこかの庭から金木犀に似た甘い香りがかすかに漂ってきた。いや、金木犀にはまだ早い季節だから、あれはたぶん近所の誰かのアロマディフューザーだろうと思いながら、ぼんやりとした頭でそのまま深呼吸をした。
こういう朝に限って、なぜか自分のことを丁寧にしてあげたくなる。
洗面台の前に立って、鏡の中の自分を見る。素肌のまま、寝癖のまま。それでも悪くない、とちょっとだけ思う。ファンデーションで全部を覆い隠すのではなく、今日は肌そのものを活かしたメイクをしてみようと決めた。引き出しの奥に眠っていたコスメたちを、久しぶりに全部出してみる。
架空のブランド「MORVE BOTANICA(モルヴ ボタニカ)」のティントセラム。去年の秋に買ったきり、なんとなく使いそびれていたやつだ。ガラス瓶のひんやりとした感触が手のひらに馴染む。キャップを開けると、ほのかにローズヒップと白檀が混ざったような香りがふわっと広がって、それだけでもう、気持ちが少しだけ整う気がした。
ファンデーションは最小限にとどめ、気になる部分だけをコンシーラーでカバーする。
それだけで十分だと気づいたのは、ここ最近のことだ。子どものころ、母の化粧台を勝手に開けては、真っ赤な口紅を唇に塗りたくって怒られた記憶がある。あのころは「メイク=厚く塗るもの」だと思っていた。でも今は、引くことの美しさを知っている。
チークはコーラルベージュをほんのり。指でぽんぽんと乗せるだけ。
ふっと力が抜けたリラクシーなムードで、春の柔らかな空気感に溶け込むコーラルベージュ。ほんのり赤みを帯びた艶やかなニュアンスが、眼差しに優しさをにじませる。
夏でも、そのやわらかさは変わらない。むしろ、汗ばんだ肌に溶け込むようなナチュラルな発色が、今の季節にはちょうどいい。
リップを選ぶとき、少しだけ迷った。
ローズピンクにしようか、それともテラコッタ系にしようか。5分ほど悩んで、最終的にローズピンクを選んだ。口紅を塗りながら、ふと思い出した。先週、友人とカフェに行ったとき、彼女がテーブル越しにコーヒーカップを渡してくれた瞬間、その指先がきれいだなと思ったこと。特別なことは何もしていないのに、なんだかすごく丁寧に生きているように見えた。
自分のためにコスメを選ぶ行為って、そういうことに近いのかもしれない。
誰かに見せるためでも、どこかに出かけるためでもなく、ただ今日の自分を少しだけ整えること。
「全部完璧に仕上げる」よりも「どこか1つだけ目立たせる」バランス感覚
で、今日はリップだけを主役にした。それだけで、鏡の中の顔がすこし変わって見えた。
仕上げに、ミストをひと吹き。冷たい霧が頬にあたる感触が、じわっと心地よい。
リラックスという言葉は、よく使われすぎて少し手垢がついている気もするけれど、今朝のこの感覚はまさにそれだった。何かを成し遂げたわけでも、特別なことをしたわけでもない。ただ、自分のためだけに30分を使った。それだけのことが、なぜかとても贅沢に感じられる。
コスメをひとつひとつ戻しながら、今日一日をどう過ごすか、ぼんやりと考えた。
どこにも行かなくていい。誰にも会わなくていい。窓から入る風と、かすかな香りと、自分の顔だけがある、静かな休日の朝。それで、じゅうぶんだ。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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