梅雨の晴れ間が差し込む朝、七時二十分。制服のブラウスがまだ少しひんやりしている時間帯に、彼女は洗面台の前に立った。
窓の外からは、どこかの家の朝ごはんの匂いが漂ってくる。バターを溶かしたような、ほんのり甘くて温かい空気。そのにおいを背中で感じながら、彼女はコスメポーチのジッパーをゆっくりと引いた。
2026年のメイクトレンドは、素肌感ベース×部分強調へと大きくシフトしている。
そのことを彼女は雑誌で読んで知っていたけれど、正直なところ、頭で理解するより先に、自分の手がそれを知っていた気がする。ファンデーションをたっぷり塗っていた頃の自分を思い返すと、どこか重たかった。顔だけじゃなく、気持ちも。
コンシーラーで目の下をさっと整えて、あとはチークをふわりと乗せるだけ。それだけで、鏡の中の顔がすこし前を向く。ナチュラルメイクというのは、「何もしていない」ふりをする技術じゃない。自分の素地を信じて、そこに少しだけ手を添えること。そう気づいたのは、つい最近のことだ。
リップは「ルミエール・ローズ」という名前のピンクベージュを使っている。架空の話ではなく、本当にそういう名前のコスメブランドが好きで、響きだけで選んだ。友達には「名前で買うの?」と笑われたけれど、それでいいと思っている。好きな気持ちは、理由なんていらない。
2026年春のトレンドは、透明感と多幸感がキーワード。
ピンクをコントロールカラー感覚で広げて、顔全体に春のニュアンスを散りばめるスタイルが注目されている。彼女がそれを試したのは先週の月曜日で、学校に着いたら同じクラスの子に「なんか今日、雰囲気ちがう」と言われた。うれしかった。でも何が変わったかは、うまく説明できなかった。それでよかったのかもしれない。
メイクをしているとき、不思議と集中できる。ブラシが頬に触れる感触、ほんのり粉っぽい香り、鏡の中で少しずつ変わっていく自分の顔。そのプロセス全部が、好きだ。小学生のころ、母親の化粧台をこっそり開けて、口紅をこっそり唇に塗ってみたことがある。真っ赤で、全然似合わなくて、あわてて拭いたら逆に唇が赤くなって、夕食のとき父親に「どうしたの」と聞かれて、「転んだ」と答えたのを覚えている。転んで唇が赤くなるわけがない、と今なら思う。
2025年下半期から2026年現在にかけて、女子高校生の間でバズっているトレンドのひとつがY2Kスタイルで、グリッターやカラフルなアイテムが注目されている。
でも彼女はそういうキラキラより、もう少し静かな明るさが好きだった。派手じゃないけれど、確かにそこにある光。それがナチュラルメイクの持つ力だと思っている。
明るい表情というのは、メイクだけで作れるものじゃない。でも、メイクは確かにその入り口になる。鏡の前に立って、自分の顔と向き合う時間は、どんなに短くても、ちゃんと「今日の自分」を確認する儀式だ。
女子高生だからこそ、コスメは特別な意味を持つ。ルールがあって、制限がある中で、それでも自分を表現しようとする意志。チークのピンク一色に、どれだけの気持ちが込められているか、大人にはなかなかわからないかもしれない。
七時三十五分。ポーチをしまって、鏡をもう一度だけ見る。
よし、と思う。声には出さない。でも、確かにそう思う。メイクは力だ。それは、誰かに見せるための力じゃなく、今日一日を自分で歩いていくための、静かで小さな、でも確かな力だ。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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