招待状を受け取ったのは、もう三週間も前のことだった。封筒の裏に小さな金のシールが貼ってあって、それを剥がすのがなんだかもったいなくて、しばらく机の上に置いたまま眺めていた。パーティー、という言葉には不思議な重力がある。日常の外側へと引っ張られるような、あの感覚。
十月の夜は早い。
窓の外はもう暗く、街灯がオレンジ色に滲んでいる。部屋の中だけが明るくて、洗面台の電球がほんのり温かい光を落としていた。鏡の前に座ると、自分の顔がそこにある。すっぴんの、正直な顔が。
コスメポーチのジッパーを引く音が、静かな部屋に響く。
2026年のトレンドは「濡れつや質感」だと、先週読んだ美容記事に書いてあった。
それを思い出しながら、グロスを手に取る。透明感があって、光を含んだような仕上がりになるやつ。パーティーの夜には、やっぱりそういう輝きが似合う気がした。
下地を指先でのばしながら、ふと子どもの頃のことを思い出す。母の化粧台を勝手に開けて、口紅を唇に塗ってみたあの夜。真っ赤すぎて、鏡に映った自分がおかしくて、こっそり笑った。あの感覚と、今この感覚は、どこかで繋がっている。自分を「なにか別のもの」に変えようとする、あのわくわくした気持ち。
素肌感を活かしながら、ラメやパールをポイントに使う——それが今年の流れだ。
だから今夜は、アイシャドウにだけ思い切り光を仕込む。アイボリーのベースを瞼全体に広げて、目頭にだけ「ルミエール・ドゥ・ソワレ」という小さなブランドのシャンパンゴールドのラメを重ねる。光の当たり方で色が変わる、あの粒子の細かいやつ。
今季のトレンドカラーはミントグリーンやペールラベンダーなどのニュアンスカラーで、柔らかく上品な色合いが特別なシーンにぴったりとされている。
でも今夜の自分には、もう少し熱のある色を選びたかった。リップは血色コーラル。唇に乗せると、顔全体がぱっと明るくなるような、そういう色。
チークを入れようとして、ブラシを持った手がふと止まった。
今夜のパーティーには、知らない人がたくさんいる。出会い、という言葉が頭をよぎる。誰かと目が合って、名前を教えあって、それが何かの始まりになるかもしれない。あるいは、ならないかもしれない。どちらでもいい、とは思えないけれど、どちらになっても悪くない、とは思う。その曖昧さが、今夜の期待の正体なのかもしれなかった。
チークをのせると、頬に薄い温度が宿ったような気がした。実際には何も変わっていないのに、不思議なものだ。
香水を一吹き。首筋に当てた瞬間、フローラルとムスクが混ざった香りがふわりと広がる。窓の外の十月の夜気と混ざって、一瞬だけ特別な空気になる。こういう瞬間が、パーティーへ向かう前の儀式みたいになっている。
最後に鏡をもう一度、正面から見る。
さっきまでそこにいた「すっぴんの正直な顔」は、まだちゃんとそこにある。ただ、少しだけ光っている。コスメが変えたのは顔ではなくて、もしかしたら気持ちの角度なのかもしれない——そんなことを、誰かに言ったら笑われそうだから、心の中だけにしまっておく。
コートを羽織って、ドアノブに手をかける。
十月の夜の空気は、思ったより冷たかった。でもそれが心地よくて、思わず深呼吸をひとつ。街の灯りに向かって歩き出すとき、足音がいつもより少しだけ軽い気がした。今夜のパーティーが、どんな夜になるのかはまだわからない。ただ、この期待の重さだけは、確かに胸の中にある。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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