夕方の六時すぎ、窓から差し込む光がオレンジから深みのある金色に変わりはじめた頃、わたしはドレッサーの前で三本の香水を並べていた。今夜のパーティーまで、あと二時間。
どれにしようか。
香りは感情をコントロールするといわれる
。だとすれば、今夜まとう一本は、ただの「いい匂い」じゃなくて、今夜の自分を形づくるものになる。そんなことをぼんやり考えながら、ひとつずつキャップを外して、手首の内側にそっと触れさせた。
最初の一本は、バニラとムスクが溶け合った甘やかな香り。肌にのせた瞬間、なぜか小学生のころ、母が出かける前に鏡の前で香水をつけていた光景が浮かんだ。あの白くて細長いボトル。背伸びして嗅いでみたら、大人の匂いがした。あのときの「なんか違う世界に入ってしまった」感覚が、今でも鼻の奥にある気がする。
でも今夜はそれじゃない。
2026年のフレグランストレンドとして、バニラやスイーツ系の香りが引き続き人気を集めながら、そこにスパイスやうま味を加えたセイボリー系への拡張が注目されている
。甘いだけじゃなく、複雑さと深みを持つ香り。それが今の気分に近い。
二本目は、架空のブランド「メゾン・ルーセル」の限定ボトル。友人に誘われてセレクトショップで試したとき、あまりの好みすぎて思わず声が出てしまったやつだ。フローラルとウッディが絶妙に重なって、嗅いだ瞬間に「夜の庭」という言葉が頭に浮かんだ。深呼吸したくなる、そういう香り。
手首にのせると、最初はすっきりとした柑橘のトップノートが立ちのぼり、数分後にはふわりとローズとサンダルウッドが顔を出してくる。
香水は時間と感情を旅する「物語」のようにデザインされている
というのは、本当にそうだと思う。つけた瞬間と、一時間後では、まるで別の自分になったみたいだ。
ここで少し迷う。
今夜はパーティー。食事もある。
パーティーや会食の場で食事がある場合、濃厚な香りは周囲が気分を悪くすることもあるので注意が必要だ
。せっかくの香りも、TPOを外してしまえば、相手に不快感を与えるものになってしまう。好きな香りをまとうことと、場の空気を読むこと——その両立が、フレグランス選びのいちばん難しくて、いちばん楽しいところだと思う。
三本目は、オードトワレ。
オードトワレは自分の周りにふんわりと香りをまとうことができ、どんなTPOにも合わせやすい
。軽やかで、主張しすぎない。隣に座った人が「あれ、なんかいい香りがする」と気づいてくれるくらいの、やさしい存在感。
そう、「やさしい」というのが今夜のキーワードだった。
華やかすぎず、でも埋もれない。自分の体温と混ざって、自分だけの香りになる——そういうものがいい。右手首に三本目を少しだけつけて、左手首に二本目を残したまま、しばらくそのまま腕を下ろして待った。
どちらがより今夜の自分に似合うか。
鏡の前で腕を上げたとき、ドレスの袖がすっと滑り落ちて、手首がひとつ見えた。その瞬間、二本目の「メゾン・ルーセル」の香りがふわっと広がった。ああ、これだ。
ちなみに、香水をつけるとき、勢いよくスプレーしすぎてドレスの胸元に直接かかってしまった。慌てて拭いたけれど、まあ、少しくらいはいいか——と自分に言い聞かせた。誰にも言わないでおく話だ。
ファッションと同じでTPOに合った香水を使い分けることで、香りのセンスは磨かれていく
。何度も選んで、何度も失敗して、それでも「これだ」と思える一本に出会えたとき、コスメとしての香りは単なる美容アイテムを超えて、もっと個人的なものになる。
窓の外は、すっかり夜になっていた。街の灯りが滲んで、空気がひんやりとしている。玄関を出る前にもう一度、手首を鼻に近づける。
やさしい香りが、静かに漂っていた。
今夜の自分が、そこにいる気がした。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之


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