目覚めたのは、午前九時をすこし過ぎた頃だった。カーテンの隙間から夏の朝の光がするりと差し込んで、畳の縁をうすく白く照らしていた。七月の朝はもうこの時間から空気が重く、窓を開けると生ぬるい風と、どこかの庭の金木犀……ではなく、向かいの家が干しているタオルの柔軟剤の甘い匂いが混じってくる。
今日は休日だ。どこにも行かなくていい。誰かに会う予定もない。
そういう日に限って、なぜか化粧をしたくなる。不思議なことだと思う。平日の朝は義務感で鏡に向かうのに、休日の朝はなぜか自分から鏡を引き寄せてしまう。たぶん「誰かのためではない」という自由さが、そうさせるのだろう。
洗面台の前に立って、まずスキンケアをゆっくり重ねる。ドラッグストアで見つけた小さなブランド「ヴェールドゥモス」の化粧水は、テクスチャーが水のようにさらさらで、手のひらに受けるとほんのりローズとグリーンが混ざったような香りがする。これが好きで、もう三本目になる。顔に押し当てると、ひんやりとした感触がじわりと広がって、それだけで少し気持ちが整う気がした。
ベースは薄く、が今年の気分だ。以前は毎日リキッドファンデーションをしっかり塗っていたけれど、最近は気になる部分にだけコンシーラーをちょんちょんと置いて、あとはほぼ素肌のまま。日焼け止めを兼ねた下地を薄く伸ばせば、それで十分だと気づいてしまった。子どもの頃、母の化粧台を覗いていた記憶がある。ファンデーションをぱふぱふと叩く音、粉の甘い匂い。あの頃は「大人になったらあんなに塗るんだ」と思っていたのに、今の自分はどんどん引き算している。
チークは指で。クリームタイプをほんのひとさじ分だけとって、頬の高い位置にぽんと置いて、そのまま外に向かってじんわりと溶かすように広げる。血色が内側からにじむような、そういう仕上がりが好きだ。
リップは迷った。ヌードベージュにするか、それとも今日は少しだけ遊ぶか。結局、引き出しの奥にしまっていたテラコッタ色のティントを選んだ。薄く重ねると、唇の輪郭がぼんやりと色づいて、「あ、これでいい」と思えた。鏡の中の自分が、ちょっとだけ知らない人みたいで、悪くない。
ここで一つ、正直に言うと。チークを広げながら、うっかり指についたクリームをそのまま鼻の頭にもなすりつけてしまった。しばらく気づかず、鏡をのぞいたら薄ピンクの鼻のトナカイが完成していた。一人で笑った。誰も見ていないからよかった、というか、誰も見ていないからできる失敗だ。
化粧をしながら、リラックスとはこういうことかもしれないと思う。完成を急がなくていい。うまくいかなくても笑えばいい。時間をかけて、自分の顔と静かに向き合う時間。それは義務でも演技でもなく、ただ「今日の自分」を確かめる行為に近い。
窓の外では、蝉がまだ遠慮がちに鳴き始めていた。夏の朝の光はもう少し強くなっていて、洗面台のタイルに細い影を落としている。鏡の中の自分は、誰かに見せるためではない顔をしていた。それが、今日いちばん気に入っているコスメかもしれない。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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