窓の外から、蝉の声がじりじりと滑り込んでくる七月の午後。テーブルの上には、買ったばかりのネイルポリッシュが三本、ちょこんと並んでいた。
今日は元気な気分だ。なんとなく体が軽くて、朝からずっとワクワクしている。理由なんて特にない。ただ、こういう日に限って、何かを始めたくなる。
2026年の夏は、「バターイエロー」や透明感のあるピンク・ブルーが大注目のカラーだと、ネイリストたちの間でも話題になっている。
そのことを思い出して、先週ドラッグストアで迷いに迷って選んだのが、淡いクリームイエローのポリッシュ。ブランド名は「ルーシェル」という小さなコスメブランドで、パッケージの小瓶がとにかく可愛くて、それだけで買う理由になってしまった。
ネイルを塗るとき、私はいつも少し緊張する。子どもの頃、母親の化粧台からこっそり赤いマニキュアを拝借して、利き手の親指だけに塗ってみたことがある。もちろん、はみ出しまくった。爪よりも指の皮膚のほうが色鮮やかになってしまって、夕飯の席でばれた。あの恥ずかしさは今でもじんわりと記憶に残っている。
だから今でも、塗り始める前にちょっとだけ深呼吸をする。
ボトルを開けると、ほんのり甘い溶剤の香りが鼻をくすぐる。夏の室内特有の、少しだけ熱を帯びた空気の中に、その匂いが溶けていく感じ。窓から差し込む光が、テーブルの木目をぼんやりと照らしていて、なんだか時間がゆっくり流れているみたいだった。
今年のトレンドとして、乳白色ベースに少量のミラーゴールドをあしらったニュアンスネイルも人気で、シンプルながら洗練された大人っぽさを演出できる
と知っていたけれど、今日の私はそういう「大人っぽさ」より、もっと無邪気な気分だった。だからクリームイエロー一本で、まっすぐ塗ることにした。
一本目、人差し指。ブラシを動かすたびに、爪の表面がつるりと黄色く染まっていく。その瞬間の、なんとも言えない充実感。「あ、ちゃんと塗れてる」という小さな達成感が、胸のあたりにふわっと広がる。
二本目を塗り終えたところで、ふと手を止めた。
窓の外の蝉がいっせいに鳴き止んで、一瞬だけ、あたりが静かになった。その数秒間のことを、なぜかずっと覚えていると思う。風鈴の音がひとつ、遠くから聞こえた。テーブルに置いたアイスティーのグラスに、水滴がつたっていた。
静かな心、という言葉が頭に浮かんだ。
日常のバタバタの中では、なかなか手に入らないもの。でも今日みたいに、ネイルを塗るというたった一つのことに集中していると、気づいたら雑念が消えている。これが私にとってのコスメタイムの本当の意味なのかもしれない。
エアブラシネイルのような、境目のないグラデーションで夕焼けや海をイメージしたデザインも今年の夏は注目されている。
いつかそういう複雑なアートにも挑戦してみたいと思いつつ、今日はこのクリームイエローの一色で十分に満たされている。
全部の指を塗り終えて、両手をそっと広げてみる。十本の爪が、淡い黄色に輝いている。窓からの光を受けて、ほんのりと透き通って見える。これが、今日の私との出会いだ。新しい自分に会う感覚、と言えば大げさかもしれないけれど、ネイルを変えるたびに、少しだけ気持ちが切り替わる気がする。
乾くのを待つあいだ、ぼんやりと手を眺めながら思う。次はどんな色にしようか。
フラワーアートや、粘土ジェルを使った立体的なお花のデザインも今年の春夏に大人気だという。
秋になったら、そういうのも試してみたい。でも今は、このシンプルなイエローが、今日の自分にいちばんしっくりくる。
ネイルひとつで、こんなに気分が変わる。コスメって、やっぱり不思議だ。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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