目覚ましが鳴る前に、目が開いた。
九月の朝はまだ暗く、窓の外にうっすらと青みがかった空が広がっているだけで、街はまだ眠っている。カーテン越しに差し込む光が、化粧台の鏡をぼんやりと照らしていた。今日は重要な会議がある。それを思い出したのは、コーヒーメーカーのスイッチを押した瞬間だった。
豆が挽かれる音と、香りが部屋に広がる。その香りを吸い込みながら、少しだけ背筋が伸びた気がした。
コスメポーチを開く。いつもと同じ動作のはずなのに、今日は指先に少し力が入る。先月、友人に勧められて買ったアイライナー——架空のコスメブランド「ルミエール・ノワール」の細芯タイプ——をまだうまく使いこなせていなくて、先週の朝は利き手がほんの少し震えて、右目だけ線が太くなってしまった。そのまま出社して、会議室の窓ガラスに映った自分の顔を見て、心の中でひっそりと「あ、やってしまった」とつぶやいた。誰も気づいていなかったと思う。たぶん。
今日はゆっくりやる。
2026年のトレンドは、骨格や肌の質感を生かした引き算メイク、いわゆる”ミュートメイク”が気分だという。
血色感と丁寧感を意識して、余計なものを足さない。そのシンプルな考え方が、仕事の日の朝には妙にしっくりくる。
ベースは薄く。
ファンデーションを最小限に抑えて素肌の質感を活かす薄づき仕上げが、今年の主流だ。
コンシーラーで気になるところだけをそっと押さえて、あとはリップに少しだけ力を込める。チークは指先でぽんぽんとなじませる。この感触が好きだ。冷たい指先が頬に触れる、その温度差がいい。
オフィスに向かう電車の中で、窓に映る自分の顔を確認する。凛とする、という言葉が頭に浮かんだ。それは気合いを入れることとは少し違う。背伸びをするのでもなく、ただ、自分の輪郭をきちんと持つ、ということに近い。
子どもの頃、母が鏡の前に座って口紅を引く姿を見ていた記憶がある。急いでいるときでも、その動作だけはゆっくりだった。外出前に鏡を見るというのは、自分を整える儀式なのかもしれないと、大人になってから気がついた。
会議室に入ると、窓から朝の光が斜めに差し込んでいた。まだ誰も来ていない。資料を並べながら、コーヒーの香りがまだ鼻の奥に残っているのを感じた。
2026年の仕事のトレンドとして、人間の優位性はソフトスキルへ移行しつつあるという。判断力、創造性、そして意味のあるアイデアを生み出す能力が問われる時代だ。
それはメイクにも似ているかもしれない、とふと思った。どこを強調して、どこを引くか。全部を完璧にしようとするより、自分らしい一点を持つほうが、ずっと伝わる。
同僚が入ってきて、「今日のリップ、いいですね」と言った。
思わず少し照れた。ありがとう、と返しながら、今朝の自分の選択が正解だったような気がして、静かに嬉しくなった。会議が始まる前の、ほんの数秒の話だ。
オフィスの蛍光灯の下でも、自分のコスメが自分を支えてくれている感覚がある。それは派手さではなく、静かな確かさだ。凛とするというのは、そういうことなのかもしれない。鏡に向かった朝の数分間が、今日一日の自分をつくっている。そう思うと、明日の朝も、少しだけ丁寧にコスメポーチを開けたくなる。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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