朝の七時十五分、まだ蝉の声がくぐもって聞こえる夏の終わりかけの朝に、彼女は洗面台の前に立った。窓から差し込む光はまだ柔らかく、オレンジというより白に近い。顔を洗ったあとの肌はひんやりとして、タオルの綿の感触がほんの少しだけ心地よかった。
ポーチを開ける。
中身はそんなに多くない。リップ、コンシーラー、チーク、それからお気に入りの小さなパレット。架空のブランド「Aube Doux(オーブ・ドゥー)」のそれは、友達に誕生日に贈ってもらったもので、ピンクベージュとテラコッタがひとつのケースに収まっている。蓋を開けるたびに、かすかにバニラに似た香りがする。たぶん気のせいだと思うけど、それでも毎朝嗅いでしまう。
2026年のメイクトレンドは、素肌感ベースに部分強調という流れが主流になっている。「全部完璧に仕上げる」より「どこか一つだけ目立たせる」バランス感覚こそが今年らしさだという。
彼女はそれを雑誌で読んだわけではなく、なんとなく自分でたどり着いていた。ファンデーションを厚く塗ると、なんだか自分じゃないみたいで落ち着かないから。
コンシーラーを目の下にぽんぽんとなじませる。次にチーク。
ほんのりくすみ感のあるニュアンスカラーを頬骨の高い位置にふんわりのせると、顔に自然な陰影と立体感が生まれる。
それを知ってから、チークの使い方が変わった。昔は濃く入れすぎて、母に「なんかお祭りみたいね」と言われたことがある。あのひと言は地味に効いた。
リップを塗るとき、少しだけ手が止まる。
今日は何色にしようか。透明感のあるピンクか、それとも少しだけ主張のあるベリー系か。結局いつものピンクベージュを選ぶ。
ぷるんとした艶と血色感を意識したリップは、主張しすぎない色味でも、みずみずしさを加えることで今っぽい存在感のある口元を作ってくれる。
これを知ってから、リップだけは毎日ちゃんと塗るようになった。
鏡の中の自分を見る。
明るい表情、というのはこういうことかもしれない。作り笑いではなく、なんとなく顔全体が軽くなったような、そういう感覚。メイクをするとなぜか背筋が伸びる。これは不思議だといつも思う。化粧水をつけるときとも、服を選ぶときとも、違う種類の「整う」感じがある。
ふと、小学生のころのことを思い出した。母の化粧台を勝手に開けて、口紅をくちびるに塗ってみたことがある。鏡を見たら、なんだか大人みたいで怖くなって、慌てて拭いた。あのときの「なんか違う」という感覚と、今の「これが私だ」という感覚は、同じ鏡の前なのにまるで別の話だ。
「加工や演出よりも”ありのまま”をコンテンツ化する流れは加速している」という言葉を、彼女はSNSで見かけた。
ナチュラルメイクというのは、手を抜くことじゃない。むしろ逆で、自分の顔をちゃんと見て、どこを活かしてどこを休ませるかを考える作業だ。女子高生だからこそ、肌の若さに甘えすぎず、でも怖がりすぎずに、自分のペースで試せる。それが今の時代の特権だと、彼女はなんとなくそう感じている。
2026年春のメイクキーワードは「抜け感」「素肌感」。全体に均一なメイクで仕上げるより、どこかを”抜く”ことで今っぽい軽やかさが生まれるという。
ポーチのチャックを閉めながら、ふと気づいた。今日、アイブロウを忘れた。眉毛、ほぼ素眉のまま学校に行くことになる。一瞬焦ったけれど、まあいいか、と思った。今日の眉毛は”抜け感”ということにしよう——心の中でそっとツッコミながら、彼女は玄関のドアを開けた。
夏の朝の空気が、ふわりと頬に触れた。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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