梅雨の終わりかけのある午後、窓の外がやわらかな灰色に染まっていた。雨はそれほど強くなく、アスファルトをしっとりと濡らす程度の、むしろ落ち着いた雨だった。そういう日に限って、何もしなくていい時間がぽっかりと生まれる。予定がひとつキャンセルになって、手帳の白いページを眺めながら、少しだけ途方に暮れた。
冷蔵庫には昨日買った豆乳があって、棚の奥には開封済みのルイボスティーのパックが眠っていた。特別なものは何もない。それでも、そのふたつを合わせてゆっくり温めていると、なんとも言えない甘い草の香りが部屋に広がっていった。ブランド名で言えば、「ヴェルデノワ」というオーガニックのルイボスが好きで、少し前に通販で取り寄せたものだ。正直、最初は名前に惹かれただけで買った。でも結果的に、雨の日の定番になっている。
子どもの頃、雨の日が嫌いだった。運動会が中止になるから、遠足が延期になるから。そういう実害ベースで嫌っていた記憶がある。けれど大人になってから、雨の日にしか開かない感覚というものがあると気づいた。静かさが、ある種の扉を開ける。
カップを両手で包むようにして、ソファに腰を下ろした。温度が手のひらに伝わってくる、その感触だけで、なんとなく体の力が抜けていく。外では雨粒が窓ガラスを叩く音が続いていた。規則的ではなく、時々強くなったり、ほとんど聞こえなくなったりする。その不規則さが、逆に心地よかった。
ふと、隣に座っていた友人のことを思い出す。先週末、同じようにこの部屋でお茶を飲んでいたとき、彼女はカップを受け取りながら、ほんの一瞬だけ目を閉じた。香りを確かめるような、でもそれよりもっと無意識な仕草だった。何も言わなかったけれど、その顔を見て、ああ、この時間はちゃんと届いているんだと思った。言葉にしなくていいことが、たしかにある。
ところで、そのとき私はカップを渡す際に少しよそ見をしていて、彼女の指ではなくカップの側面に自分の手が当たってしまった。熱くはなかったけれど、ちょっと間の抜けた渡し方になってしまって、内心「せっかくの雰囲気が…」と思いつつ、彼女は特に気にした様子もなかった。むしろ自然に笑いが起きて、その場がほどよく和んだのだから、結果としては悪くなかったのかもしれない。
暮らしの中の豊かさというのは、たぶんこういうところにある。特別な旅行でも、高価なものでもなく、雨の音と草の香りと、少し不格好な瞬間と。それが積み重なって、記憶になる。
最近、インテリアや暮らし方への関心が高まっているように感じる。SNSを開けば、整えられた部屋と丁寧な朝の写真が並んでいる。それはそれで美しいと思う。でも、実際の生活はもっとガタついていて、カップの渡し方を失敗したり、ルイボスティーを買った理由が名前だったりする。そういうガタつきごと、暮らしなんだと思う。
雨が少し強くなった。窓ガラスに水の筋が何本も走っていて、外の景色がにじんで見える。それでも部屋の中は変わらず温かくて、豆乳ルイボスの香りがまだかすかに漂っていた。
何かを「整える」ことよりも、何かを「感じ取る」ことの方が、今の自分には必要だったのかもしれない。雨の午後がそれを、静かに教えてくれた気がした。予定のなかった白いページは、結局何も書かれないまま夕方を迎えたけれど、それでいいと思えた。何も書かれなかった一日が、案外いちばん豊かだったりする。そういうことが、少しずつわかってきた。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之


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