朝から気分がよかった。理由なんてなくていい、ただ窓の外の光がやけに白くて、6月の湿った空気のなかにも、どこかさわやかな隙間があった。そういう日は、何かを始めたくなる。
引き出しの奥から、ずっと使いかけのままにしていたネイルポリッシュを取り出した。「ルミエール・ド・メル」という架空みたいな名前のブランドで買った、淡いバターイエロー。
今年の夏、ファッションのトレンドを意識したイエローを取り入れたネイルが注目されている
と知ったのは、先週読んだ記事だった。知識として持ってはいたけれど、実際に手に取ってみると、想像よりずっと淡くて、太陽の光に透かすとほとんど白に近い。こんなにやさしい色だったっけ。
テーブルの上に広げたコットンとアセトン、それから小さなネイルファイル。順番に並べていくこの作業が、妙に好きだ。儀式みたいで。コットンにアセトンをしみこませると、ツンとした揮発性の香りがふわっと広がって、鼻の奥をくすぐる。窓を少し開けると、外から雨上がりの草の匂いが混じってきた。梅雨の終わりかけ、みたいな空気。
ベースコートをひと刷け。筆がするっと爪の上を滑る感触が気持ちいい。子どもの頃、母の化粧台でこっそりマニキュアを触って、盛大にこぼして怒られたことを思い出す。あのときの赤いポリッシュの染みは、しばらくタオルに残っていた。あれはたしか夏休みの午後だった。
今日は、そのときとは違う。ゆっくり、丁寧に。
バターイエローを爪に乗せていくと、指先がぱっと明るくなる。こういう瞬間、なんとも言えない高揚感がある。ネイルを塗るという行為は、自分のためだけの時間で、誰かに見せるためでも、評価されるためでもない。ただ、自分の手が好きになる。それだけで十分だ。
春はパステルカラー、夏はクリア感のあるデザインと、季節に合わせてネイルデザインを楽しむのもおすすめ
とよく言われるけれど、今年の夏は特に、透明感のある淡い色が気分にぴったりはまっている。
乾くのを待ちながら、両手を宙に浮かせたまま、ぼんやりと天井を見上げる。こういう時間が、静かな心を取り戻させてくれる気がする。忙しい日々のなかで、ネイルを塗るこの数分間だけは、スマホも、通知も、関係ない。ただ、乾くのを待つだけ。それがいい。
……ただ、ひとつだけ誤算があった。乾く前にうっかりテーブルに小指をぶつけて、せっかくのバターイエローが微妙にヨレてしまった。思わず「あ」と声が出た。もう一度塗り直す。それもまた、ネイルの時間のうちだ。
今年の春夏トレンドには、マグネットネイル、フラワーネイル、フラッシュネイルが上位に挙がっている
。次はそのどれかに挑戦してみようかと思いながら、バターイエローの二度塗りを終えた指先を眺める。光の角度によって、少しだけ金色に見える。
ネイルとの出会いは、いつも「今日の自分」との出会いでもある。鏡を見るより、ずっと正直に今の気分が出る気がして、それが好きだ。元気な日は明るい色を選ぶし、疲れた日はヌードカラーに手が伸びる。今日のバターイエローは、間違いなく、今日の自分にちょうどよかった。
窓の外に、また白い光が差し込んでいる。乾いた指先をそっと合わせると、つるりとした感触が返ってくる。今日は、いい日になりそうだ。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之


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