八月の朝は、容赦がない。
カーテンの隙間から差し込む光が、洗面台の白い縁を鋭く照らしていた。まだ六時四十分。蝉の声が窓の外で重なり合い、室温はすでに生ぬるい。そんな時間の中で、彼女はひとり、小さな丸鏡の前に立っていた。
コスメポーチのファスナーを引く音が、静かな部屋に響く。
取り出したのは、ベージュのリップと、うっすらピンクがかったチーク、それから少し前に新大久保で買った韓国コスメのハイライター。ブランド名は「ルミエール・ド・ソワ」という、いかにもフランス語ふうの名前だけれど、製造は韓国のソウル近郊らしい。そんな小さなアンバランスさが、なんとなく好きだった。
2026年のメイクトレンドは、作り込まずナチュラルで勝負するという時代の流れから生まれている。
彼女もそれをどこかで知っていたわけではないけれど、気づけばそうなっていた。ファンデーションは薄く、気になる部分だけコンシーラーでそっと隠して、あとはリップ一点に命を懸ける。それが、今の自分のやり方だ。
ブラシを頬に当てた瞬間、チークのほんのり甘い香りが鼻先をかすめた。桃、というよりは白桃に近い。毎朝この香りを嗅ぐたびに、小学校の夏休みに祖母の家で食べた冷えた桃を思い出す。皮をむいてもらって、うっかり果汁が手首まで伝ってしまった、あの夏の午後。ちょっと恥ずかしくて、でも甘くて、それだけで十分だった記憶。
頬骨の高い位置を中心にふんわりとのせると、柔らかく洗練された印象になる。
そう読んだのはどこかの記事だったか、友人から聞いたのだったか。どちらでもよかった。鏡の中の自分の頬が、少しだけ温かみを帯びていく。その変化は、他人には伝わらないほど小さい。でも彼女には、はっきり見えた。
女子高生がメイクを覚えるのは、誰かに見せるためだけじゃない、と思う。少なくとも、彼女にとってはそうだ。
次にハイライターを指先に取り、目頭のあたりにそっと置く。光が集まって、目がひと回り大きく見える。
目頭や黒目の下にハイライトをワンポイントで入れると、立体感が出て目の生命力もさらにアップする。
生命力、という言葉が好きだった。メイクの話なのに、なんだか大げさで、でも正しい気がする。
リップを塗る前に、一度唇を軽く押さえた。ティッシュで余分な水分を取るのが癖になっている。今日選んだのはほんのり血色感のあるベージュピンク。
濃いメイクより、抜け感のある仕上がりが2026年春から注目されている。
そのトレンドが夏になっても続いているのは、たぶん、みんなが「ありのまま」に少し疲れて、でも「作り込み」にも疲れたからじゃないかと、彼女はぼんやり考えた。
ナチュラルメイクというのは、実は手を抜いているわけじゃない。むしろ逆だ。どこを見せてどこを隠すか、どの素材を活かしてどこを補うか。引き算の美学は、足し算より難しい。女子高生がそれを体で覚えていく過程は、誰にも教わらない独学の連続だ。
鏡をもう一度のぞく。
明るい表情が、そこにいた。昨日と同じ顔なのに、どこか違う。メイクが変えたのか、気持ちが変えたのか、もうわからない。どちらでもいいとも思う。
ポーチをしまいながら、ファスナーを引いたとき、うっかりリップのキャップが床に転がった。ころころと洗面台の下まで滑っていくそれを、四つん這いになって拾う。――朝から全力だな、と心の中でひとりツッコんだ。
でも、立ち上がってもう一度鏡を見たとき、その顔はちゃんと笑っていた。
コスメは、力だ。それは誰かを圧倒する力じゃなくて、自分を自分でいさせてくれる、静かで確かな力。八月の朝、蝉の声の中で、彼女はそれをまた少しだけ、手に入れた。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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