ドレッサーの前に腰を下ろしたのは、夕方の五時をすこし過ぎた頃だった。窓の外には夏の光がまだ残っていて、斜めに差し込む橙色が、並んだボトルたちをやわらかく照らしていた。今夜はパーティーがある。だから、香りを選ばなければならない。
手に取ったのは三本。ひとつはフローラル、もうひとつはムスク系、そして最後のひとつは、架空のフレグランスブランド「ルミエール・ドゥ・セーヌ」が出している限定品で、ミモザとアプリコットをベースにした甘くてやさしい一本だ。キャップを外すと、ふわりと空気が変わった。甘さの奥に、どこか懐かしいような温もりがある。
ミモザとアプリコットのやさしい甘さをムスクが雲のように包む、そんな香り
というのは、不思議と記憶に触れてくる。子どもの頃、母が外出前に鏡の前で香水をつけていた。手首に一吹き、耳の後ろに一吹き。その仕草がひどく大人に見えて、いつか自分もそうするのだと思っていた。あの頃の母の香りが何だったのかは、もう正確には思い出せないけれど、甘くてやさしい何かだったことだけは、確かに覚えている。
香りを選ぶとき、TPOという言葉が頭をよぎる。
香水は香りによってつける人の印象が変わるため、TPOに合わせた香りを選ぶことが重要で、パーティーシーンには華やかなフローラル系の香りがおすすめ
とよく言われる。それはわかっている。でも、正直なところ「正解の香り」よりも「自分が心地よく感じられる香り」を選びたい、という気持ちもある。パーティーの場で自分が浮いてしまわないか、強すぎないか、弱すぎないか。そういう小さな不安を、香りひとつが和らげてくれることもある。
日常や特別なシーンに寄り添う香りをまとうことで、感情をコントロールする力も生まれる
という。それはおおげさに聞こえるかもしれないけれど、実感として理解できる気がした。今夜のパーティーに向かうとき、自分の纏う香りが「やさしくあれ」と背中を押してくれるなら、それだけで十分だと思う。
三本のボトルをもう一度、順番に嗅いでみた。フローラルは華やかすぎる。ムスクは今夜の気分より少し重い。やはり、ルミエール・ドゥ・セーヌの一本に手が戻ってきた。
ちなみに、試香紙に吹きかけようとしたとき、勢い余って自分の手首にも盛大に吹きかけてしまった。三吹き分。今夜の会場で、半径一メートルはアプリコットの香りに包まれることになりそうだ。まあ、やさしい香りだから許してもらえるかもしれない、と心の中でひっそり開き直った。
2026年のフレグランストレンドは、バニラやマシュマロのようなスイーツ系の香りから、さらにスパイスやうま味を加えたセイボリー系へと広がりを見せている
。コスメの世界も、香りの選択肢が豊かになっている。でも、だからこそ、選ぶ楽しさも増した。正解はひとつじゃない。今夜の自分に似合う香りを、自分の五感で選ぶ。それがいちばん、やさしい選び方だと思う。
ローズやジャスミンを主役とした花々の芳香はエレガントで華やかな印象を周囲に振りまき、パーティーといった特別な日に最適で、花束を抱えているような幸福感に包まれる
。そういう説明を読むたびに、香りとは単なるコスメのひとつではなく、今夜という時間を彩るための言葉のようなものだと感じる。
窓の外の光が、ようやく薄くなってきた。そろそろ支度を整える時間だ。手首に残るアプリコットの香りが、夜の空気に溶けていく。今夜のパーティーが、やさしい時間になりますように。そう思いながら、鏡の前に立った。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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