夕方の六時を少し過ぎたころ、窓の外はまだ薄明るく、梅雨前の六月の空が紫と橙のあいだで揺れていた。洗面台の電球がひとつだけ、白くて静かな光を落としている。鏡の中の自分と、しばらくのあいだ、ただ目が合っていた。
今夜はパーティーだ。
友人の紹介で誘われた、小さなギャラリーで開かれる立食パーティー。「出会いがあるかもよ」と彼女はさらりと言った。その一言が、ずっと胸の奥でくすぶっている。出会い、という言葉は、いつだって少しだけ重たい。期待しすぎてもいけないし、かといって何も感じないふりをするのも、なんだか自分に嘘をついているみたいで。
ファンデーションのキャップを開けると、かすかにローズとバニラが混じったような香りが鼻先をかすめた。「ヴェルミヨン・パリ」という架空めいた名前のブランドのもので、去年の秋に輸入雑貨店でたまたま手に取った一本。高かったけれど、買ってよかったとしみじみ思う瞬間が、こういう夜に限ってやってくる。
薄く、丁寧に伸ばしていく。指の腹で頬骨のあたりをなじませながら、ぼんやりと子どものころのことを思い出した。母の化粧台の前に座って、口紅のキャップだけ開けたり閉めたりしていた記憶。あのころは「おしゃれ」というものが、もっと魔法みたいに見えていた。今は自分でやっているのに、不思議と同じ気持ちが少し戻ってくる。
アイシャドウを選ぶ。ベージュにするか、くすんだテラコッタにするか。今夜の期待の温度感に合わせるなら、テラコッタのほうが正直かもしれない。ブラシを持ち直して、目のきわへそっと色を乗せていく。鏡の中の自分が、少しずつ今夜の自分になっていく感じがする。
ここで一度、ブラシを落とした。床に転がったそれを拾い上げながら、「こういう日に限って」と心の中でひとりツッコんだ。幸い、カーペットではなくフローリングだったので被害はなし。気を取り直して、続きを丁寧に。
リップは最後にする。毎回そう決めている。
パーティーの会場は、代官山の路地を少し入ったところにあるという。ギャラリー名は「Maison Filou」。フランス語っぽい名前だけれど、オーナーは京都出身の人だと聞いた。どんな空間なのだろう。白い壁に絵が並んで、グラスの触れ合う音がして、知らない誰かの笑い声が聞こえて。そういう夜の輪郭を、まだ見ぬまま想像している。
2026年のいまは、
「目立つための自分」より「心地よい自分」でいることのほうが、ずっと自然に受け入れられる時代
になった。だからこそ、こういう夜の準備も、誰かに見せるためじゃなく、自分が「今夜の自分でいい」と思えるためにある。
チークを乗せると、鏡の中の顔が少しだけ柔らかくなった。ほんのり血色が戻ったみたいで、それだけで気持ちが前を向く。
リップをゆっくり引く。深みのあるモーブピンク。唇を一度合わせて、ティッシュで軽く押さえる。この動作だけは、何年経っても変わらない。
支度が整って、コートを羽織った。玄関の小さな鏡で最後にもう一度、自分を見る。完璧ではないけれど、今夜の自分としては十分だと思った。パーティーへの期待は、まだ胸の中でやわらかく揺れている。出会いがあるかどうかなんて、行ってみなければわからない。でも、こうして準備をした時間そのものが、すでに今夜の一部になっている気がした。
ドアを開けると、六月の夜風が頬にあたった。少しだけ湿っていて、どこか花の名残りのような匂いがした。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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