目が覚めたとき、カーテンの隙間から差し込む光がいつもより白かった。十月の朝はそういうものだ。夏の名残がすっかり消えて、空気がすこしだけ引き締まっている。今日は重要な会議がある。そのことは昨夜から頭の片隅にあって、眠りの浅さにもどこかつながっていた気がした。
洗面台の前に立つ。鏡に映る自分の顔は、まだ少し眠たそうで、正直なところ「会議に向かう人間」には見えない。でも、それでいい。これからそうなっていくのだから。コスメポーチを開けると、ほんのりとローズウッドの香りが漂った。愛用している「アンブルノワール」のフェイスクリームを指先にとる瞬間、ひんやりとしたテクスチャーが肌に触れて、それだけで少し目が覚める。化粧というのは不思議なもので、施していくうちに気持ちまで整ってくる。
ファンデーションを薄く伸ばしながら、ふと子どものころのことを思い出した。母が出かける前に鏡台の前に座って、丁寧に紅を差していた姿。幼い自分にはその意味がよくわからなかったけれど、今になって思う——あれは身支度ではなく、一種の儀式だったのかもしれない。今日という仕事に向かうための、静かな準備。
アイラインを引く手がわずかに震えた。右目はうまくいったのに、左目だけ少しはねてしまった。綿棒で直しながら、心の中でひとりツッコんだ。「よりによって今日に限って」。でも、それもご愛嬌だ。完璧な線より、少しだけ揺らいだ線のほうが、なんとなく自分らしい気もしている。
リップは迷わずローズブラウンにした。主張しすぎず、でも存在感のある色。オフィスの蛍光灯の下でも浮かない、落ち着いたトーン。会議室の長いテーブルを囲んで、資料を広げて、言葉を選びながら話す——そのシーンを頭の中で一度なぞってみると、このリップの色がしっくりくることがわかった。
仕事の場で「見た目」を語ると、どこか表面的なことのように聞こえるかもしれない。けれど、自分が凛とするための化粧は、そういうものとは少し違う。誰かに見せるためというよりも、自分の背筋を伸ばすための行為に近い。鏡の中の自分と目が合って、「よし」と思える瞬間がある。その感覚が、今日一日を支えてくれる。
コンシーラーで目の下を整えて、仕上げにセッティングスプレーをひと吹き。細かい水の粒子が顔全体にかかる感触は、毎朝のことなのに、いつも少し新鮮だ。これで完成、というよりも、これでようやく「始まる」という感じ。
玄関を出ると、金木犀の香りがどこからか漂ってきた。十月のオフィス街には、こういう小さな贈り物がある。ヒールの音が石畳に響いて、自分の歩幅が少しだけ広くなるのがわかった。重要な会議は午前十時から。まだ時間はある。でも、もう気持ちはそこにいる。
コスメは道具だ。でも同時に、今日という一日を自分のものにするための、静かな宣言でもある。鏡の前で積み重ねてきた小さな朝が、仕事の場での自分を作っている——そう思うと、毎朝の十五分が、少しだけ愛おしくなる。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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