十月の夜は、思っていたよりも早く深くなる。
窓の外に街灯がぽつりと灯り始めた頃、わたしは洗面台の前に立っていた。手のひらには、先月ようやく手に入れた新しいリップ。
今秋のトレンドとして話題の「赤ちゃんマット」と呼ばれる、柔らかくふわっとした質感のリップ
で、パッケージを開けた瞬間から、なんとなく特別な夜の予感がしていた。
今夜は、パーティーだ。
正確には、友人の友人が主催する小さなギャザリングで、知っている顔は三人くらいしかいない。だから少しだけ緊張している。でも、それ以上に——期待している。知らない誰かと言葉を交わす瞬間の、あの独特の空気感。初めての出会いが持つ、まだ何色にも染まっていない可能性。それが好きだ、とずっと思ってきた。
鏡の中の自分と向き合いながら、ベースを薄く伸ばしていく。
今年のベースメイクは、ファンデーションを最小限に抑えて素肌の質感を活かす薄づき仕上げが主流
で、わたしもここ最近はそのスタイルに落ち着いてきた。厚塗りをやめてから、なぜか鏡を見るのが少し好きになった気がする。
アイシャドウのパレットを開く。
今季注目の「NEOミュートパレット」は、淡いのに立体感が出る
という触れ込みで、実際に使ってみると確かにそうだった。指先でぽんぽんとまぶたに乗せると、くすんだゴールドとローズベージュが溶け合って、なんとも言えない深みが生まれる。
ふと、子どもの頃のことを思い出した。母の化粧台を勝手に開けて、口紅を唇に塗りたくっていたあの頃。鏡の前でひとり、まるで女優にでもなったような気分でポーズをとっていた。大人になった今でも、化粧をする時間はどこか「変身の儀式」みたいな感覚がある。自分を整えながら、同時に何かに向かって気持ちを高めていく、そういう時間。
リップを手に取り、ゆっくりと唇に乗せる。
マットなのに重くない。サンドカラーに近い、くすんだローズ。部屋の電球の光の下では少し地味に見えるけれど、夜のパーティー会場の間接照明の下では、きっとちょうどよく映えるはずだ——そう信じることにした。(ちなみに一度、同じ理論で選んだリップがパーティー会場の強い照明でほぼ消えていたことがあって、あれは静かに笑えた。)
香水を一吹きする。「ルミエール・ド・ノワール」という名の、架空のブランドから出ているわけではないけれど、わたしが勝手にそう呼んでいる香り——深いウッディノートに、ほんのりと甘いバニラが混じった、秋の夜にだけ使うと決めているフレグランス。首筋にかけた瞬間、空気がほんの少しだけ変わる感じがした。
コートを羽織り、バッグを持つ。
玄関を出ると、十月の夜気がすっと頬に触れた。冷たいというより、ひんやりと澄んでいる。街路樹の葉がかさりと音を立てて、どこかから金木犀のかすかな残り香が流れてきた。もう終わりかけの香りだけど、それがまた良かった。
パーティーの会場は、駅から歩いて十分ほどの場所にある。
近年のパーティーは、おしゃれな内装を楽しめるプライベート空間が新しいスタイルとして広まっている
らしく、今夜の会場もリノベーションされた古いビルの一室だと聞いていた。どんな空間なのか、どんな人がいるのか、まだ何もわからない。
その「わからなさ」が、期待に変わっていく。
出会いというのは、いつも唐突だ。計画できないし、準備もできない。ただ、自分を整えて、扉を開けるしかない。鏡の前で過ごしたあの時間は、そのための小さな準備だったのかもしれない。コスメを重ねるたびに、少しずつ気持ちが前を向いていくような——そういう不思議な力が、メイクにはある。
夜風の中を歩きながら、わたしは少しだけ背筋を伸ばした。
今夜、誰かと話すかもしれない。笑うかもしれない。何も起きないかもしれない。それでも、この胸の高鳴りは本物だ。十月の夜に、ひとりで鏡の前に立って、丁寧にリップを引いた、この夜だけの気持ち。
それだけで、もう十分な気がしている。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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