クローゼットを開けると、今夜着るワンピースがまだハンガーにかかったまま揺れていた。六月の夕方、窓から入ってくる風はまだ少しだけ湿っていて、カーテンの端がゆっくりと持ち上がっては落ちる。パーティーは二時間後。着替えよりも先に、わたしはドレッサーの前に座っていた。
香りを選ぶのは、いつも一番最後にするつもりでいるのに、なぜかいつも最初になってしまう。
今夜のパーティーは、友人の誕生日を祝う小さな集まりだ。レストランの個室を貸し切って、十人ほどが集まる。カジュアルでも、かしこまりすぎてもいけない。そういう場所には、やはり香りにもTPOがある。強すぎる香りは食事の席では野暮になるし、かといってまったく香らないのも少し寂しい。そのちょうどいい加減を探すのが、コスメ選びの中でいちばん難しくて、いちばん楽しい時間でもある。
ドレッサーの上には、三本のボトルが並んでいる。一本はフローラル系の重厚なもの、一本はシトラスの爽やかなもの、そしてもう一本は「ヴェール・ド・ルミ」という国内の小さなブランドが出している、ムスクにホワイトティーを重ねた静かな香り。ちょうど今年の春に見つけて、一目惚れならぬ「一嗅ぎ惚れ」したものだ。
ふと、子どもの頃のことを思い出した。母がお出かけ前に香水をつける姿を、洗面所のドアの隙間からこっそり眺めていたこと。首筋にそっとスプレーして、鏡に向かって小さく微笑む横顔。あの香りが何だったのかは今でもわからないけれど、あの瞬間の空気の感触だけはずっと覚えている。甘くて、少し粉っぽくて、どこかよそゆきな匂い。
今夜、自分がその「よそゆき」をまとう番だ。
手に取ったのは、「ヴェール・ド・ルミ」だった。手首の内側にひと吹き。すぐに広がるのは、白いお茶の葉のような、やさしい香り。主張しすぎず、でも確かにそこにある。肌に溶け込むように、静かに残っていく。これなら食卓でも浮かない。隣に座った人の記憶に、ほんの少しだけ引っかかる程度の、ちょうどいい存在感。
ただ、ひとつ失敗したことがある。試し吹きのつもりが勢いよく二プッシュになってしまい、「あれ、ちょっと多かったかも」と思いながら手首をひらひらさせてみた。まあ、六月の夜風がうまく調整してくれるだろう、とそっと窓の方へ手を伸ばしてみる。
香りというのは、まとう人の体温と混ざり合って初めて完成するものだと、どこかで読んだことがある。だから試香紙で確かめた香りと、実際に肌につけた香りは違う。今夜のわたしの体温と、この「ヴェール・ド・ルミ」が、どんな香りをつくるのかはまだわからない。それもまた、パーティーへ向かう前の小さな楽しみのひとつ。
2026年のコスメ香りのトレンドは、「主張しすぎない、でも印象に残る」方向に動いている。清潔感のあるムスク系や、フローラルにひと癖加えた香調が人気を集めているのも、きっとそういう時代の空気感と重なっている。強さよりも、やさしさ。存在感よりも、余韻。
鏡の中の自分を見ながら、ワンピースに袖を通した。窓の外、夕暮れの空がオレンジから紫へと変わりかけている。六月の、この一瞬だけの色。香りも、この夜も、二度と同じものは来ない。だからこそ、丁寧に選びたいと思う。
さあ、出かけよう。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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