目が覚めたのは、午前六時二十分だった。カーテンの隙間から夏の光がまっすぐに差し込んで、まだ眠たい目蓋を容赦なく照らした。八月の朝はいつもこうだ。やさしくない。でも、今日はそれでよかった。今日は、重要な会議がある。
洗面台の前に立って、まず自分の顔をじっと見る。少し浮腫んでいる。昨夜、緊張のせいで眠りが浅かったのかもしれない。コップに水を注いで一口飲んだ。ひんやりとした感触が喉を通り抜けていく。それだけで、少しだけ気持ちが整う気がした。
スキンケアを終えて、コスメポーチを開く。いつもとは違う、ちゃんとした日の儀式だ。
2026年のベースメイクは、ファンデーションを最小限に抑えて素肌の質感を活かす薄づき仕上げが主流。コンシーラーで気になる箇所だけをカバーし、「どこか1つだけ目立たせる」バランス感覚こそが今年らしさ
だと、先週読んだ美容記事に書いてあった。それを思い出しながら、コンシーラーをほんの少し、目の下に伸ばす。指先で丁寧に、叩き込むように。
アイシャドウは、架空のコスメブランド「LUNE VEIL(ルネヴェール)」のグレージュパレットを使う。細いブラシで目頭から目尻へ、ゆっくりと。
アイラインはブラウンやグレージュでやわらかく引き、境目を軽くぼかすと今っぽい抜け感が出る
というのを参考にして、今日はあえてリキッドライナーを封印した。ブラウンのペンシルで、ふんわりと。引きすぎず、でも存在感は残す。そのバランスが、なかなかむずかしい。
チークは薄く、内側からにじむように。リップは、少し深みのあるローズベージュを選んだ。会議室の蛍光灯の下でも浮かないように、と考えながら鏡を見ていたら、うっかりリップブラシを床に落とした。コロン、と軽い音。拾い上げて、苦笑いした。凛とした朝の支度のつもりが、なんとも間の抜けた一コマだった。
メイクを仕上げて、少し離れて鏡を見る。よし、と思う。これが今日の自分だ。
オフィスに向かう電車の中、窓の外を流れる景色を眺めながら、子どものころのことをふと思い出した。母が出かける前、洗面台の前で口紅を引く姿を、廊下からこっそり見ていた。あの背筋の伸びた立ち姿が、なぜかずっと記憶に残っている。化粧をするということは、単に見た目を整えるだけじゃない。自分の中の何かを、しゃんとさせる行為なのかもしれない。
駅を出ると、夏の熱気がまとわりついてくる。アスファルトから立ち上る熱と、どこかの店先から漂うコーヒーの香り。汗をかかないように、でも急がなければ。そのふたつの命題を抱えながら、小走りで横断歩道を渡る。
儚げな透明感とオトナの色気が溶け合う「ケミメイク」
という言葉が、今年のトレンドとして語られている。異なる要素が組み合わさって、予想以上の印象を生む。それは、仕事においても同じだと思う。柔らかさと鋭さ。聞く力と主張する力。どちらかだけでは足りない。
オフィスのドアを開けると、冷えた空気と、コピー機の低い稼働音が出迎えた。同僚がコーヒーカップを両手で包みながら、「今日の会議、頑張ろうね」と声をかけてくれた。その一言が、思いのほか、胸にじんわりとしみた。
席についてパソコンを開く。資料を確認する。深呼吸をひとつ。
今日の自分は、ちゃんと整っている。コスメが仕上げた顔が、内側の気持ちを少しだけ先回りして、凛とした表情を作ってくれている。仕事に向かうとき、そういう「外側からの後押し」が、意外と大きな力になる。
会議室の扉を開ける直前、もう一度だけ、小さく深呼吸した。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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