クローゼットの前で、少しだけ迷っていた。今夜のパーティーに何を纏っていくか、ではなく——どんな**香り**をつけていくか、という問いに。
窓の外はまだ明るい。5月の夕方特有の、オレンジとも白ともつかない淡い光が部屋の床に伸びていた。エアコンはまだつけていないから、窓から入る風がすこし湿っていて、どこかの家の夕飯の匂いがかすかに混じっている。そういう時間に、香水のボトルをいくつか並べて眺めているのは、なかなか贅沢な行為だと思う。
ドレッサーの上に並んでいるのは三本。うちひとつは去年の秋に買ったもので、ウッディとムスクが重なる深めの香り。もうひとつは、「ベルフルール・トーキョー」というセレクトショップで試香したとき一目惚れした、ベルガモットとホワイトティーが溶け合うような一本。そして最後のひとつが、最近買ったばかりのフローラル系で、ピーチとローズが重なる甘さの中に、少しだけグリーンの清涼感がある。
「ペアー」「ピーチ」「ストロベリー」などを含む甘い香調や、フローラルに一癖あるアクセントを加えた遊び心のある香調が最近のトレンドになっている
と知ったのは、コスメ系のブログを読んでいたときのことだった。なるほど、と思いながら手に取ったのが、このフローラル系の一本だった。
ただ、今夜は少し考えてしまう。パーティーといっても、気心の知れた友人たちが集まる小さな夕食会で、会場はこじんまりとしたダイニングスペース。料理の香りも漂うだろうし、何より、すぐ隣で話す距離感がある。そういうTPOを考えると、主張しすぎる香りはかえって野暮かもしれない。
子どもの頃、母が出かける前に香水をつける仕草をよく見ていた。手首にひと吹き、それから耳の後ろへ。鏡の前でほんの数秒だけ静止してから、「行ってきます」と言う。その残り香が玄関にしばらく漂っていて、なぜか胸が少しだけ締め付けられるような気持ちになったのを覚えている。香りというのは、その人が去った後にも、しばらくそこにいる。
だから、選ぶ香りには責任がある、とまで言うと大げさかもしれないけれど。
アールグレイの香りは、情報過多な現代社会における「静けさ」や「余白」を求める気分と共鳴し、「静かな贅沢」として支持されている
という話を読んで以来、ベルガモットを含む香りへの関心が高まっていた。「ベルフルール・トーキョー」で買ったあの一本も、ベルガモットが柱になっている。透明感があって、でも冷たくなくて、やさしい。そう、やさしい香りというのが、今夜に一番似合う気がした。
ボトルを手に取って、蓋を外す。手首の内側に軽く吹きかけると、最初にすっと白い花の気配が広がって、それからゆっくりとティーの温もりが追いかけてくる。部屋の空気がほんの少し変わったような感覚。こういう瞬間は、何度経験しても新鮮だ。
——と、そこで気づいた。吹きかけた量が多すぎた。手首だけのつもりが、なぜか肘のあたりまでしっとりしている。慌てて手を振ったけれど、それはそれで香りが部屋中に広がって、まあ結果的に悪くはなかったのだけれど。
香りのレイヤリングはもはや香水だけのものではなく、感情的デザインと結びついた日々の儀式になりつつある
と言われる今、香りを選ぶという行為自体が、自分を整えるひとつの時間になっている。パーティーに向かう前のこの数分間が、そういう意味を持つようになったのはいつ頃からだろう。
やさしい香りを纏うことは、相手への配慮でもある。近い距離で話すとき、隣に座るとき、グラスを受け取るとき——そういう場面で、主張しすぎない香りは場の空気に溶け込んでいく。TPOに合わせた香り選びは、コスメの中でも特に繊細な判断が求められる領域だと思う。
窓の外の光がすこし橙に変わった。そろそろ出かける時間だ。ドレッサーの上の三本のうち、「ベルフルール・トーキョー」のボトルだけをそっとバッグに入れた。今夜の自分に、これが一番似合う気がしたから。香りというのは、理屈ではなく、そういう直感で選ぶものかもしれない。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之


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