クローゼットの前に立って、ふと気づく。今夜のパーティーに何を纏っていくか、まだ決めていない。ドレスでも靴でもなく——香りのことを。
窓の外はまだ明るい。7月の夕方は妙に長くて、オレンジ色の光が部屋の奥まで差し込んでくる。フローリングに細長い影が伸びて、その上に並んだいくつかの小瓶が、それぞれ違う表情で光を受けていた。ひとつひとつ手に取るたびに、指先に冷たいガラスの感触が残る。
2026年上半期、もっとも多くの人に選ばれた香りのひとつは、ディプティックの「オルフェオン」だという。石鹸のような清潔感に、やわらかなパウダリー感が重なる——強すぎず、それでいて印象に残る香りとして、幅広い層から支持されている。
そのことを思い出しながら、棚の一番手前にある小瓶を手に取った。
2026年のトレンドとして注目されているのが、「アールグレイ&タイム」の香り。すでに親しまれているアールグレイにハーブのタイムを加えることで、清涼感に加え、奥行きや余韻のある香り体験が生まれる。「知っているのに新しい香り」という表現がしっくりくる。
でも今夜は、もう少し違うものが欲しかった。
パーティーの場所は、友人が最近見つけたというレストランバー「ル・セリエ・ブラン」——白ワインのセラーを改装した、地下にある小さな空間だ。天井が低くて、照明は暖色系。きっと人の体温と笑い声で、すぐに空気が満ちる。そういう場所では、香りが強すぎると窮屈になる。
「さっぱりとした印象で石鹸のようにふんわり香るので、TPOを選ばず、さりげなくつけられる」という言葉が、どこかの記事に書いてあった。
そうだ、今夜はそういう香りがいい。
TPOを考えるのは、コスメ選びの基本だと頭ではわかっている。でも実際には、気分に引っ張られてしまうことの方が多い。以前、友人の結婚式に重すぎるオリエンタル系をつけていって、隣に座った人にそっと窓を開けられたことがある。あれは今でも少し笑える失敗だ。
小瓶を鼻に近づける。フローラルでもなく、ウッディでもなく、もっとやさしい何か。
今年の夏フレグランスは、フルーティ系、シトラス系、フローラル系と選択肢が豊富で、気分やシーンに合わせて選びたくなるラインナップが揃っている。
その中で自分が求めているのは、誰かに「いい香りですね」と言わせるためじゃなく、自分が心地よくいられるための一本だと気づく。
「感情をコントロールするといわれる香りは、揺らぎがちな気持ちの大きな味方になる」という言葉を、どこかで読んだことがある。
それはたぶん本当のことで、香りを選ぶという行為そのものが、すでに自分を整える時間になっている。
子どもの頃、母の化粧台にあった白い瓶のことを思い出す。名前も知らなかったけれど、あの香りがすると「今日は特別な日だ」という感覚があった。香りは記憶と結びつく。今夜のパーティーが、誰かの記憶の中で「あの夜はいい香りがした」と残ったら、それだけで十分だと思う。
香りのレイヤリングはもはや香水だけのものではなく、ひとつの感覚的な表現として広がっている。複数の香りを重ねることで、一日を通してカスタマイズされた、進化するムードが生まれる——そんな考え方が、じわじわと浸透してきている。
でも今夜は、重ねない。一本だけ。
やさしい香りを、やさしくつける。
手首の内側に一吹き。体温でゆっくりと広がっていく感覚がある。ほんのり甘くて、でも主張しない。夕方の光の中で、部屋の空気がすこしだけ変わった気がした。
鏡を見ながら、ピアスを選ぶ。今夜のコスメはシンプルにする。香りが主役だから。そう決めると、なんだか気持ちが軽くなった。
パーティーはもう、始まっている気がした。
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組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:上辻 敏之

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